世界初!液体水素エンジン車向けバルブ開発への挑戦
2024.05.21
カーボンニュートラルの実現に向け、電気自動車をはじめさまざまな選択肢を模索している自動車業界。その中で、新たな選択肢として水素エンジン車の開発が進められています。トヨタ自動車はこの取り組みを加速させるため、2021年に圧縮気体水素を燃料とした車両でレースに参戦。さらに2023年には、世界初の液体水素を燃料としたマシンでレースに参戦し、見事完走を果たしました。
この世界初の液体水素エンジン車には、アイシンの極低温バルブ技術が投入されています。完成までの道のりは、想像を超える困難の連続だったとのこと。開発の裏側をプロジェクトメンバーに聞きました
アイシンが培ってきた独自の技術をベースに、世界初のプロジェクトに参入
液体水素エンジン車の開発にあたり、アイシンは自社の技術が生かせると判断し、ある部品の製造を自らトヨタ自動車に交渉します。それが、2021年1月から開発を始めた「ボイルオフガス弁」と「第一安全弁」という2つのバルブです。
水素は-253℃という極低温で液体となる物質で、液体水素エンジン車ではこれを魔法瓶のような真空二重槽の燃料タンクに格納します。ただし、さまざまな部品を装着する燃料タンクには完全に真空にできない部分があり、そこから熱が入って自然気化が生じます。水素は気体になると体積が800倍になるため、わずかな気化でもタンクの内圧が上昇し、最悪タンクが破裂することも。これを防ぐ役割を果たすのが、タンク内の圧力を常に一定に調整する「ボイルオフガス弁」と、急激に上昇した圧力を瞬時に逃す「第一安全弁」なのです。
この2つのバルブはアイシンがこれまで培ってきた技術から生まれたと、開発を率いる田代は言います。
「まずオートマチックトランスミッションで油圧を制御する高度なバルブ技術、これはアイシンが得意とする分野です。そして-253℃の極低温下で正常に作動させる技術、ここには長年培ってきた冷凍機のノウハウがありました。使われ方は違っても機能は同じということで、アイシン独自の技術をうまく使えば、このバルブは実現できると考えました」
水素エンジン車用バルブ開発 田代 宗大
さらに、他社にはないアイシンならではの強みも開発を後押ししました。「安全弁の専門メーカーさんのバルブは定置用なんです。つまり、その場から動かない機器に取り付けるタイプ。今回取り付けるのはレース車両という移動体です。そこに対応できるのは、クルマづくりをよく知るアイシンの強みでした」と田代。
こうして始まった世界初の液体水素エンジン車向けバルブの開発プロジェクト。しかしその行く先には、想像もしなかった困難が待ち受けていました。
求められる精度はナノメートルレベル、未知の領域で格闘を続ける日々
自分たちにはノウハウがある。そう思ってスタートしましたが、開発は順調には進みませんでした。一番の課題は、-253℃という極低温への対応でした。その難しさを開発に携わる中川が説明します。
「-253℃の世界では、バルブ内の気体漏れを防ぐシール材が収縮して使えなくなることがわかりました。それなら開閉弁そのものを隙間なく合わせて漏れを防ぐしかありません。これが難問でした」
金属製の弁はいくら精密に加工しても、その表面にわずかな凹凸が生じます。しかも水素は「宇宙で最も小さな分子」です。並大抵の精度では通り抜けてしまいます。試しに社内の解析技術部に解析を依頼すると、その接面にはナノメートル(100万分の1mm)レベルの精度が必要なことがわかりました。これは、アイシンでは誰も経験したことがない世界でした。
これを実現するには「ラッピング研磨」という特殊加工を行うしかありません。しかもナノメートルの超高精度で加工できる会社がどれほどあるか。「納期が迫っていることもあり、加工会社さんを片っ端に当たりました。でも『うちは無理です』と断られ続けまして。その中で1社だけ話を聞いてくれる会社があって、すぐに田代さんに出向いてもらいました」と、当時の緊迫した状況を中川が語ります。
水素エンジン車用バルブ開発 中川 和重
田代はその日のうちに図面や試作品などを持参し、すべて包み隠さず今の状況を伝えました。開発にかけるチームの熱意が伝わったのか、その会社は加工を承諾してくれました。未知なる領域で格闘を続けていたチームに、一筋の光が差し込みました。
世界初の技術に挑戦したい、チームの熱量がまわりにも伝播していく
一方で、専門メーカーの安全弁を分析してみると、弁の構造や組み立て方も若干違うことがわかりました。「油圧の制御弁と通常の安全弁では、機構は同じでもやはり別物だったのです。ここでも協力してくれる安全弁メーカーさんを求めて、声をかけ続けました」と田代は振り返ります。
やがてチームの熱意に応えてくれる会社が現れます。再び図面や試作品を抱えて出向く田代。通された部屋で現在の組み立て方を説明すると、「それじゃダメだ」「この面が荒れてしまう」「だったら、こう組むべきだ」と、先方の技術者から次々に声が上がります。部屋は次第に開発現場のような熱気に包まれました。自分たちがつくった部品で世界初のプロジェクトを実現させたい。アイシンの開発メンバーの想いは、いつしか会社の垣根を越え、多くの技術者の心に広がっていました。
「すべての条件を満たす試作品が完成し、2022年9月にカナダで行われた安全評価テストに合格したときは、本当に感動しました。プロジェクトスタートから約9か月という短期間での開発。スケジュール的にもギリギリで、何かひとつでもつまずいたらアウトという状況の中で、チームのみんなはもちろん、多くの協力会社のみなさんも、よくやってくれたと思います」田代は綱渡りのような日々を回想し、そう話します。
あとは実際のレースで問題なく機能し続けるか。レース本番はすぐにやってきました。
デビュー戦は見事完走、すぐに次のステップに向けての進化を図る
チームの力を結集して完成したバルブは、トヨタ自動車の「#32 ORC ROOKIE GR Corolla H2 Concept」に搭載され、 富士スピードウェイで開催された24時間耐久レースに出場しました。アイシンの開発メンバーも現地に駆けつけ、過酷なデビュー戦の行方を固唾を飲んで見守りました。結果、世界初の液体水素エンジン車は、見事完走。バルブも正常に作動し続け、その信頼性を証明しました。
「ゴールの瞬間は、感動より安堵の気持ちのほうが強かったです。むしろ開発メンバーみんなで、この瞬間をこの場で迎えられたことのほうが、胸に迫るものがありました」と田代は語ります。
レース場にて、開発メンバーと
液体水素エンジン車向けバルブの開発プロジェクトは、これで終わりではありません。レースで必要なスペックを把握したチームは、次のステップとして大幅な軽量化に着手しました。それは初回の半分以下を目指すという驚くべきものです。
「初回はとにかく水素漏れを防ぐことに集中したため、多少オーバースペックな部分がありました。今回は剛性などを最適化することで、大幅な軽量化を達成したのです」と開発に携わる林が説明します。
「我々はレースで終わるつもりはなく、ちゃんと量産化という観点をふまえてプロジェクトを考えています。いかに無駄な肉や工程を省いていくか。そういう将来を見すえた現実的なアプローチが、この軽量化には含まれているのです」と林。目指すべきは、社会実装。チームの揺るぎない姿勢が、バルブ軽量化の取り組みからも見えてきます。
水素エンジン車用バルブ開発 林 喬之
世界初を成し遂げた素人チームを支える、失敗を責めないというルール
困難に直面するたびに、メンバーの情熱と自発的な行動力で乗り越えてきた今回のプロジェクト。その成功の根底には、このチームならではの組織運営があったと田代は言います。
「このチームの統括を任されたとき、誰かを責めることをやめようと決めました。何か問題が起きたときは、『なぜだ?』と詰問するのではなく、『なぜ起きたか考えてみよう』とその場で問題点を洗い出し、みんなで話し合うようにしたのです。絶対に誰かを責めない。むしろ『そこはダメだとわかったので、次に進める』とポジティブに捉えるようにしました」
失敗がとがめられないと、失敗を恐れなくなる。失敗を恐れなくなると、もっと自発的に動けるようになる。ラッピング研磨の加工会社を見つけ出したときも、メンバーの自発的な行動をきっかけにたどり着いたものでした。「誰もがそれぞれ能力をもっていると思うんです。それをうまく出せるようにするのが、上の仕事。このチームだって精鋭なんかじゃなく、実は素人の寄せ集めですから」と田代が言うと、林も中川も笑ってうなずきます。
思ったことを何でも口にできるオープンな空気。冗談を言い合い、楽しく話を転がしながら、問題の核心へと迫っていく。そうやって世界初のプロジェクトを実現に導きました。お互いの力を信じ、誰に言われることもなく自ら行動し、チームをその先へと推し進める、精鋭にも負けない強い情熱をもったメンバーたち。再び世界をあっと言わせるようなプロジェクトが、ここから生まれるかもしれません。